生と性、そして私の“終わって欲しくない時間”

【注意】
この文章は、父の死からゆっくりゆっくり時間をかけて、前を向いて行こうと、自然になるまで、 自分の心の整理として書き、誰かに読んでもらう為に書いた文章ではないので、読みづらい部分が多々あるかと思います。
この場にご紹介しておいて、おかしいのですが、嫌なお気持ちをされる場合もあるかもしれませんので、どうか無理して読み進めないようになさって下さいませね。(そして、超長文なのです!)

 

2020年12月7日に父が亡くなりました。
しかも午前中まで母と一緒に公園の掃除の仕事をしていて、そのお昼御飯の時に食べた天丼のエビの天ぷらを喉に詰まらせて窒息死でした。
母はその時に一緒にいて、食べる直前まで生きていたのに、自分があのお蕎麦屋さんに入ろうと言わなければ、もう少し生きたかもしれないと、自分を責めていました。

私は、父が今年位からボケ始めていると聞いて(道がわからなくなり、母に迎えに来てもらったり、言った事をすぐ忘れたり、物忘れが酷くなり)「母の手を煩わせるくらいなら、ポックリ逝ってくれた方がいい!!」と、最後に父に会った時に、心から思ってしまっていました。
それに「母に迷惑かけないように、なるべく自分で努力するんだよ!」と言ったら、「わかってるけど、どうしたらいいかわからない」と、ちゃんと迷惑かけてる自覚もあって、反省もしている父に向かって「迷惑かけない死に方をするんだよ!」とか心から思ってしまっていました。もちろんそれらは口に出していませんが、「生きるって大変だね」という言葉は直接言ってしまって、その言葉の裏には「早く死んでくれた方が楽になるよ」という含みもあったりして、最低です。

念じた通り、詰まらせた一瞬はすごく苦しかったと思いますが(一瞬ではないかもですが)、すぐ意識を失ったようで、ご臨終まで時間はかからなかったようで、ピンピンコロリのような状態でした。

私は老人ホームで、植物人間状態でただ生かされている方や、認知が酷くなって手のかかる方や、下のお世話までさせながら生きている方々を常に見てきて、自分の家族だけは絶対にこうなって欲しくない!!自分も介護は絶対にしたくない!!されたくもない!!って心から思ってしまって、父はまだ全然そこまでいってなくて、脳のMRIやCTでも異常がなく、自分でもボケてる自覚もあって、「このまま治らないのかな?」とか、悩んでる様子もあったみたいで、それなのに私は、たまにしかあわない癖に、自分のたった一人の父親でさえ、ボケ老人の中の一人としか思っていなかったのです。

一緒に暮らしてる母の苦労を勝手に知った気になって、母に迷惑だとか、母が自由がなくてかわいそうだと思って、父なんか何の役にも立ってなくて、大きな子供状態で、今後もっと進行した時をかなり悲観していました。

でも母に詳しく聞いてみたら、ボケてからは、一緒に行動する事が多くなって、喧嘩しながらも仲良くしていたから、「とても寂しくなる」と、心から悲しんで、もっと生きていて欲しかったと、自分を責めて辛そうでした。

私も、母からいろいろ話を聞いて、あんな父でも母からは愛されていて、そして父も母には以前から感謝していたし、二人は50年間いろいろありつつも一緒にいて幸せだったんだと知り、私はなんて酷い娘だったんだろうと深く後悔しました。
たった19年一緒に暮らして、その後25年間は年に1~2度会う程度だったし、自分のたった二人しかいない親に対して、軽々しく『死』を心に思っちゃいけないと、本当に思いました。

実は私は他にも自分がこの人苦手!とか、この人さえいなければ!と思った相手は、今まで私の前から自然といなくなっている事があり、全ては単なる偶然なのか、それとも私は念が叶いやすいから、変な事をやたらに思ってはいけないのかもしれません…。

もちろん思わないに越した事はないのですが、心が自動的に思ってしまうので、我慢するのは難しくて、例えば私に対して失礼な言葉を言った人に対してや、何となく苦手な感じの人は、自然に嫌な気持ちになって、そうすると職員だと辞めたり、異動したり、お年寄りでも移乗介助や排泄介助が大変な人や、暴言暴力の人は、心から嫌な気持ちになって、そうすると入院したり、転移したり、亡くなられたりするので、今は職員もお年寄りも仕事がやりやすい状態になっているので、良い事だと私は思っていましたが、まさか父親まで亡くなってしまうなんて、自分の思いの強さが怖くなってしまいました。

それに老人ホームでは、移乗や排泄介助は減っても、無くは無いので、自分の身体を酷使してまでベッドから車椅子への移乗や、臭いがキツイ排泄介助は「面倒臭い!」「嫌だ!やりたくない!」と心から思ってしまうし、逆に私が苦手だったお客様が、リハビリの回数を減らしたり、入院されたり、リハビリ無しになったりしたら、心から「良かった!」と思ってしまうので、人としてどうかと思いますよね?

健康なお客様はいないのわかってて、命を預かる大変な仕事をやっている癖に少しでも楽したかったり、自分が気楽に出来たら、入院する事にほっとしたり、逆に大変な排泄介助をやる場合は、お客様にとっては便が出てスッキリで喜ばしい事でも、「え⁉️リハビリ中のこのタイミング?」と思ってしまっています。
やはり人として、酷いですよね?

でも心は自動的に感覚的に、自然に、素直に反応してしまうので、抑えきれなくて、心の中では自分中心で、嫌とか苦手とかハッキリ嫌悪を表していますが、人前(建前)ではいい人ぶって、何でも嫌な顔せずやる大人のふりをしたり、偽善者です。

父に対しても、結婚前は正月(自分がやることがないからもあって)実家に行って、父をマッサージしたり、5年前に両親と京都旅行をしましたが、これもその時から父がまだ足腰大丈夫なうちにどこかに行きたいと言っていたので、確かに楽しい旅行が出来ましたが、何となく形だけ親孝行をやった気になってるだけのような気もします。

取り合えず、マッサージや旅行等、やっておけばいいだろうみたいな、本当に偽善者で、心からじゃなかったかもしれません。全て形だけ。その証拠に、結婚してからはマッサージも旅行も出来ていなくて、今年二回だけ母と三人でランチをしましたが、その時も父は身体が動けるうちにどこかに行きたいと言っていたのに、「どこに行きたい?」と聞いても「どっか」と言うだけで、コロナの影響もあるから、今年は無理だし、情勢が落ち着いてからじゃないと…と思ってしまい、何の計画もしてあげなかったし、それどころかあんな酷いことを思ったり、ボケは老化で努力ではどうにもならないのを、母に迷惑かけないようにするんだよ!と厳しく言ってしまいました。
もうどんなに後悔しても、父は戻りませんが、思い出すとすぐ涙が出てしまうし、夜もあまり眠れず、食欲もありませんでした。

私は旦那さんに対しても、彼は私が寝ている時でもお構い無しに、スゴい大声で一人言を言ったり、うるさいゲップを長い時間わざと出したり、オナラの音も大きいし、私は仕事で朝早いし、体力仕事だから睡眠とりたいのに、全く考慮無しで、その事を低姿勢でお願いするように言っても、「じゃあ廊下で寝れば」と言われるだけなので、本当に私はその大きな声や音やうるさいのが苦手で、これは生理的にというか条件反射で「嫌!!」と思ってしまうから、やはり心の中では本当に嫌悪する気持ちと「お金だけ残していなくなって欲しい!」と思ったり、その事だけでも離婚を考えたり、彼に対しても良からぬ事を思ったり、願ったりするので、ダメだとわかっていても反射的に思ってしまうので、どのようにしたらいいのだろう?と悩みました。
本当に父のようにいきなりいなくなってしまうのは悲しいですが、正直旦那さんとはまだ5年位の付き合いで、父と母(50年間の)ほどの信頼の厚い夫婦関係にはなっていないから、睡眠や静かな時間を邪魔される位なら一人の方がまし!と思ってしまう所もあります。

もちろん離婚じゃなくて、仲良くやっていきたいけど、心の中で嫌悪を強く抱き続けながらやっていくと、いつか今まで去っていった職場の人達やお年寄り方、そして父のような突然のお別れになってしまいまうのかも…と思うと、老人ホームの仕事でも「嫌!」と思う気持ちも閉じ込めて、建前の顔と同じように、心の中も感じないように訓練すべきなのでしょうか?訓練して出来る事ではなさそうだけど、思ってしまうと叶ってしまうとわかれば、無理にでも封じ込める必要はあるのかもしれません。

実は、父が亡くなる一週間位前に、母が亡くなる夢を二日連続で見て、怖くなってその後母に連絡したら、二人ともその時は元気でしたが、実際は父が亡くなる予知夢みたいなものだったのか…。
実際もし、母が父より先に亡くなったら、父は生きていけないし、(道に迷っても誰も助けられないし、父の良き理解者は母だけなので)姉は知的障害者なので、姉の世話や理解者も母だけで、しかも姉は父を嫌っていて、話をしないし、二人だけで一緒に家にいたくないので、必ず母がいないとダメというルールが出来てしまい、父も家に早く帰りたくても母が先に帰っていないと、帰宅出来なくて時間を潰したり、もう年なのに、家でゆっくり出来なくて大変でした。

なので、母に万が一があったら家族全員大変な事になると思って、その夢(二回も見たので)で母を心配しましたが、実際は父だったので、知らせを聞いた時は、正直母より先で良かったとか、あっけなくピンピンコロリで、手やお金(延命等で)もかからず、すごく母に今まで迷惑や世話をかけさせた分、最後の父の母への感謝の表れ?でもあるかとも思ったりもしました。とても不謹慎ながら…。

それに最後の父の顔は、寝顔のようで、そんなにすごく苦しい顔ではなく、ずっと肉体労働をやっていて、ボケも気にしたり、身体を持つ辛さから、肉体を脱いで、やっと楽になったのかとも思ったり。

でも母は、冒頭に書いた通り、自分があのお蕎麦屋さんを選択しなければ、とか別の硬くないメニューを父に食べさせていたら、後何年間かは生きていたかもしれないと、自分のせいで亡くなったと思って、自分を責めて眠れない日々が続いていたので、もし亡き父から母に何かメッセージがあれば伝えたいし、私も自分の念の強さが怖かったり、父に対しての後悔や罪悪感もあって、とにかくどんな方法でもいいから、父ともう一度繋がりたくて、いつも悩んだ時に相談する占い師さんに視て頂きました。
悩み過ぎて前に進めなくなった時に、励ましてもらったり、アドバイスを頂く占い師さんで、文通のようにメールだけですが、親身になってもらえて、いつもピンチの時に助けられているので、今回もお願いました。
平仮名ばかりなのですが、いつもわかりやすい説明のボリュームある内容で、言葉を尽くして下さるので、今回は特に穴が空く程読みました。

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奈々ちゃん
こんばんは!これはね、まずさいしょにいうのは、奈々ちゃんのおとうさんは、奈々ちゃんがいうように、しんでしまうとき、一瞬(いっしゅん)はくるしかったけど、そのあとは、まったくくるしんでいないから、ぽっくりくるしまずにいけたとおもうんだ。だから、おとうさんは、くるしんだってことはないから、そのことはまずアンシンしてほしいんだ。そして、おとうさんがこんかい、なくなってしまったのは、奈々ちゃんがねがったからではないんだ。だから、そのこともシンパイしないでダイジョウブだよ。このおとうさんはね、じつは、う~ん、コトバがむずかしいけれど、オマケのジンセイなところがあってね。なにかをまなびにうまれてきたわけではなくて、もうすでにあらゆるマナビはおわっていてね。あるていど、じぶんでさりギワをきめれるようなところがあったんだ。だから、おとうさんジシンも、じつはこのタイミングだなっていうことがわかっていたところがあってね。これは、じつはじぶんできめたようなところがあるんだ。もちろん、ほんにんのアタマではそのイシキはないんだけれど、たましいが、このタイミングをきめていたところがあるんだ。そして、おとうさんのたましいは、もともと、あらゆることに執着がないタマシイでね。こういうヒトは成仏もなれたものでね。とってもはやくあがっていくことができるんだ。さいしょから、天界(てんかい)のひとみたいなところがあるからね。だから、ちょっといきてるヒトたち、のこされたヒトたちからしたらザンネンなことだけど、もうこのヨのことはわすれて、むこうでキモチをきりかえてたのしくしているようなところがあるんだ。49にちとかね、ほんとうはそのぐらい、こうなるまでにはかかるんだけど、おとうさんのばあいは、いきているときも、はんぶん、そっちのセカイにいたようなところもあってね。成仏がはやいんだ。だから、いまは、くるしむってこともないし、たのしんでいるから、みんながやがてあっちのセカイにいくときには、えがおのおとうさんとサイカイできるとおもうから、まったくキにしないでいいとおもう。そのぶん、のこされたみんなにたいしてのメッセージっていうのは、まったくなかったりするんだ。おとうさんらしいというと、おとうさんらしいんじゃないかとおもう。区切りがはやいっていうかね。うけいれるのがはやいところがあってね。しんだことにきづいたら、もうそれをつたえるシュダンはないし、おとうさんは、カコのことはどうしようもないっていうオモイをもっていてね。それは、奈々ちゃんにうけつがれていてよかったってってそれだけはいってるんだ。だから、奈々ちゃんの淡々としてるところを、おとうさんは、じぶんににているとおもっていてね。すぎちゃったことは、もうしかたないし、ヒトはだれでもこうしてあっけなくしんでしまうものだから、奈々ちゃんも後悔ないように、たのしくいきるんだよ?って、そういうかんじなんだ。ほんとうは、もう1コト、これにつけくわえられてて、ボケたらオワリだぞ!っていうのをわらいながらいってるところもあってね。まったくヒカンテキなかんじがないから、このおとうさんは、おもしろいヒトだとおもう。まったくくらいヨウソはないし、あかるいヒトだとおもう。いちおう、奈々ちゃんが、おとうさんがしんでしまうまえに、そういうふうにおもっていたことをつたえてはみたんだ。でも、おとうさんは、そのセイカクは、奈々ちゃんらしいっていっていてね。このおとうさんのすごいところは、タニンのセイカクによいわるいをつけないところなんだ。奈々ちゃんはそういうコだってわかっているから、そのことにたいして、せいかくがわるいとかよいとかおもわなくてね。それが奈々ちゃんのコセイだとおとうさんはおもっていて、それをヒテイすることもなく、奈々ちゃんはそれでいい!っていうんだ。ぼくがいおうとおもっていたことは、おとうさんがじつはいっていてね。奈々ちゃんのせいかくのことは、スナオなせいかくだっていってるんだ。おもしろいのは、奈々ちゃんは、ヒトをサベツしないヒトだっていうんだ。オヤでも、だれでも、ウソをついていないってところがいいっていうんだ。よくたとえば、障害者のヒトをサベツしてはいけないっていわれて、障害者のヒトのことをきたないとかっていったり、おもっちゃいけないっていわれることがあるとおもうんだ。でも、それはじつはおおきなメでみたら、1ばん差別はしてることなんだ。だって、ふつうのヒトがなにかきたないことをしたら、それは「汚いな!」っていうのがフツウなわけだからね。障害者にかぎって、それをいわない!っていうのは、普通のヒトではないって、おもってしまってるってことでね。それは差別をしてるってことなんだ。だから、そういうイミで、奈々ちゃんは、にんげんのことをみんな差別をせずに、ビョウドウにみれているってヒトなんだ。それをおとうさんはきづいていてね。だから、おとうさんだから、そうおもっちゃいけないとか、そんなことはおもわなくていいっておもってるんだ。おもったことはジジツなんだから、それをいうかいわないかは、1つモンダイになってしまうけど、ヒトとしてサイテイだって、みんなにいわれてしまうようなことを、ココロでおもうことは、おとうさんもよくあったらしいんだ。ただ、おとうさんは、奈々ちゃんよりも、ずるいところがあるってじぶんではいっていてね。おとうさんは、おもっていても、それはクチにださないらしいんだ。クチにださねければ、ヒトにはわからないからっていうんだ。だから、奈々ちゃんも、おもってもクチにださないっていうずるさはもっておいたほうがいいぞっていうようなことをおとうさんはいっているところがあるんだ。 だからね、奈々ちゃんがタニンにたいして、じぶんではちょっときついことをおもってるなってことは、それはべつにわるいことではないし、ひどいことでもないとおもう。とってもスナオでウソがないひとなんだ。すごくへんなことだけれど、きたないひとをきたないということは、モンクではなくてね。たとえば、ふとっているヒトに、ふとっていますね!っていうのは、モンクではなくて、ジョウタイのセツメイだからね。だから、奈々ちゃんのいってることも、スジがとおっていないことではなくて、感情をぬきにして、レイセイにかんがえたときには、奈々ちゃんのいってるとおりだなってことはおおいはずなんだ。でも、にんげんっていうのは、どうしても、そこにヨケイなものがいろいろくっついていて、まわりくどいところがあるんだ。だから、そういうときは、あるいみで、カンカクを鈍感にしてボケたふりをしちゃうのもテだって、おとうさんはいってるんだ。あんまり、そういうことをはなしあってはこなかったって、おとうさんは、奈々ちゃんにたいしていっているけれど、奈々ちゃんは、奈々ちゃんでじぶんできづけるアタマのいいこだっていうんだ。だから、あれこれ、なにかをオヤがいわなくてもできるこだっておもっているっていうのもあったらしいんだ。だから、いわなかったし、これからもいわないよっていうんだ。そして、へんに同情してかなしむとかは、奈々ちゃんらしくないから、やめてくれよ?って茶化してくるようなところもあってね。どうせ、こっち(むこうのせかい)であえるから、キモチをきりかえて、たのしくいきていくんだよって、そういうことをいってるんだ。奈々ちゃんは、おとうさんとおなじで、すぎちゃったことはしかたないっておもえるヒトだとおもう。このきりかえはすごくタイセツでね。このカンカクがあるとしあわせになれるんだ。夫婦のことは、これは、まえにつたえたことがあるかもしれないけれど、奈々ちゃんのほんらいのジンセイは、「自由」をもとめてうまれてきているところがあるから、ほんとうは、ひとりでいきていくほうがラクだし、イヤなことをとことん回避していくことはできるんだ。だから、1ばん、ほんらいは、とおかった家族(かぞく)/夫婦(ふうふ)っていうものを、てにいれているから、すこし、これはキツイところはおおいとおもう。でも、うまくいかないことだったり、いっしょにいないとぶつからないことだったり、ひとりではありえないやかましさとかね、そういうマイナスなブブンを、ぎゃくにいいなっておもえるようになると、おもいのほか、たのしくはなってくるとおもう。こんかいのけんで、おかあさんとはなしていてもわかったとおもうけど、いなくなると、さびしくなるものではあるんだ。ひとりのほうがらくだけど、ふたりでいることをしってしまうと、とちゅうからっていうのは、きついところがあったりするとおもう。ひとりでいきぬいていくってミチも、奈々ちゃんはできるし、そっちのミチだってしあわせにはなれるけど、それはいつでもあゆむことができるミチだから、あえて、いまは、やかましさをたのしむようにするっていうかね。「ボケ」と「つっこみ」じゃないけど、ひとりでいきていると、「それをやめて!」っていうこともなくなってしまうから、ぎゃくに、このそれをいえるっていうことをたのしむといいとおもう。これについても、おとうさんからのコトバがあってね。「どっちでもいい」っておもえるとジンセイはラクだぞっていうんだ。いっしょにいても、ひとりでもどっちでもいい、けど、いまは、あいてもいるし、いっしょにいるか、そのくらいでいいんだっていうんだ。どうせ、もう100ねんもいっしょにいないんだってイイカタをするんだ。イガイにはやいぞって。だから、わずらわしさをたのしんで、それがたのしめなくなったら、きがねすることなく、わかれたらいいっていっていてね。奈々ちゃんは、ジブンできめれるこだっていってるから、ぼくもそうおもうんだ。だから、ほんとうにいやだったら、わかれてるとおもうからね。いまは、まだそこまでではないとおもうから、もうすこしだけいっしょにいて、きづいたら、わかれるのもしんどいなっておもうトキがくるらしいんだ。もうここまでいっしょにいるなら、このままでいいやって、あるいみ、あきらめじゃないけど、そうなるらしいんだ。これはおとうさんがいってることでね。おとうさんもキレイゴトをいわないヒトでね。ぼくは、おとうさんは、おかあさんにたいしてのアイがあったとおもう。でもおとうさんは、おかあさんがいってるように、そんなロマンチックじゃないぞってわらっていってるところがあってね。イヤなとこだってたくさんあったし、ガマンしたところだってあるって、オモイデを美化してるっていうんだ。ぼくは美化してないとおもうし、おとうさんのてれかくしだとおもうけれどね。それでもフウフとしてやってこれたヒケツは、おとうさんは「あきらめ」だっていうんだ。さっきいったように、ここまでいっしょなら、もうわかれるほうがめんどくさいっていうことでしかないっていうんだ。だから、すべてをあいすることもないし、うまくやろうとすることもない、それでもなんだかんだながくいっしょにいたら、リユウじゃなくて、いっしょにいるのがあたりまえになるっていうんだ。だから、奈々ちゃんもむずかしくかんがえずに、いまは、いっしょにいてやるかのキモチで、あしたもいっしょにいて、1ねんいて、3ねんいて、5ねん10ねんと、つみかさねていけばいいとおもうよ。どうしてもイヤならすぐにでもオワリにはできるからね。ながくなってしまったけれど、奈々ちゃんが理不尽だとおもうことをされたとき、その理不尽をしたひとにフコウがあるっていうのは、ちょっとホントウでね。でも、これは奈々ちゃんのチカラってことではなくて、そのひとたちがしたことの反動がはやくかえってくるようなところがあるんだ。壁あてじゃないけれど、じぶんでしたことがヨテイよりはやく、じぶんにかえってきたみたいなところがあるんだ。だから、奈々ちゃんじしんが、なにかわるいことをそのヒトたちにしているってことではなくて、そのヒトたちがかべにむかってなげたボールの速度を奈々ちゃんはあげることができるヒトで、奈々ちゃんがみてるときに、ボールがちょうど、はねかえってあたるところまでみれるってかんじなんだ。だから、奈々ちゃんがそのことで罪のいしきをかんじることはないよ。 サイゴに、おとうさんから、おかあさんへのメッセージはないんだ。これは、ちょっとおとうさんがかっこつけてるところもあるんだけれど、「いきてるときにつたえることはぜんぶ、つたえてきたし、生きてるときは生きてるうちのこと、いいたいこともぜんぶいった、後悔もないし、たのしいジンセイだった。つづきは、またいつかこっちで!」っていうようなコトバをつたえてきていてね。それが1つのメッセージにもなっていてね。つまり、しんだあとで、あれこれいえなかったっていうのは、ルール違反(いはん)だっておもってるみたいなんだ。いいたいことは、いきてるときにいうのが、ルールだっておもっていたところがあってね。だから、しんだあとは、あれこれいきてるひとたちにはいわないっていうんだ。あっちにいったときには、またはなせるからね。おとうさんは、まってるわけじゃなくて、むこうのセカイでたのしんでいるから、そっちのセカイでもたのしまないとソンだぞっていいかたはしてるんだ。だから、くらくしめっぽいかんじは、おとうさんはスキじゃないらしいから、どうせ、じぶんたちがしんだときに、おとうさんのことは、みんなおもいだして、再会できるから、それまでは、むしろわすれてくれていいくらいのかんじではいるんだ。だから、キモチをきりかえて、カゾクたのしくいきていこう!ってそういうかんじのメッセージだけがあってね。あまりよびだされるのもめんどくさいからイヤだっていうおもいをもっているから、おとうさんからのメッセージっていうのはこれでオワリになるとおもったほうがいいとおもう。すくなくとも、ぼくにはもうムリだとおもう。おとうさんは、おわったことやカコにこだわるなってことをいっているからね。奈々ちゃんはわかるはずだっていってる。だから、みんなでまえをむいていこう!そして、奈々ちゃんはじぶんのせいかくをわるいとおもわなくてダイジョウブだからね。スナオなカンカクだから!

 

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以上です。

私はこれを何度も何度も読んで、ちょっと安心したし、確かに父は生きている時によく母に感謝していたから、自分がいつ亡くなってもいいように、後悔ない状態だったから、あんなに安らかな顔だったのかも…。
しかし、私は又あかりさん(この占い師さん)に聞きたい事が出て来て、下記のようなメールを送りました。

 

あかりさん

前回は本当にありがとうございました。

前回ので大分、安心した部分はありつつも、それを読んだ上で、まだ心の整理がつかない所と、亡くなってから今更ですが、父の事をもっと知りたくなったり、父から受け継いでいるはずの『過去のことはどうしょうもない』は、私の中にあるはずなのに、この父の死だけはまだまだそんな風に思えなくて、私は血も涙もないようなドライな人間だと思っていたのに(父からも同情して悲しむなんて、私らしくないって言われても)涙腺が壊れてしまったかのように(壊れた蛇口状態に)涙が止まらなくて、母や友人に聞いてもらって、一人で抱え込まないようにしていましたが、もう子供返りしてしまったかのように「お父さん!お父さーん!!」って泣き叫んでしまって、いつでもどこでも涙が出て、夜も今までのようにはグッスリ眠れなくなってしまいました。

外を歩いている時は、父と似た歩き方の男性をつい見てしまったり、有り得ないのに自転車乗ってたら、偶然バッタリ再会できて、いつも通り「おう!!」と言われそうだったり、旦那さんのいびきが、父もこんな風だったなと思い出したり、生前はそこまでパパっ子じゃなかった癖に、何年も会わなくて平気だったし、寧ろ母の方が友達みたいに話せてたけど、父とはそこまで楽しく話していた訳じゃないし、若い時は、父が苦手だったり、嫌だと思ったことも何度もあって、それなのにいざ亡くなると、自分をこの世に生み出してくれた二人の中の一人で、血が繋がっているからか、自分の半分が無くなっていくような痛み、胸が張り裂けそうなこんな辛い、悲しい気持ちになるんですかね?

特に私はあかりさんに以前仰って頂いた通り、人との関係を自分から小さくしていて、友人も少なく、それで唯一の両親の一人がこの世からいなくなってしまったら、いくら一人で平気なはずの私でもやっぱり寂しいし、悲しいし、もっともっと父と母と三人でこれからも過ごしたかった!って思いで、どうしょうもないです。
もちろん亡くなった人を生き返らせたりできないから、母と連絡を取ったりするしかないですが、どうしたらこの辛さから抜け出せますか?

時間が解決するしかないのでしょうが、私がこんなに父に執着?するなんて、自分でも意外で、日常生活をもっと忙しくさせたら、自然と忘れていくのかもしれませんが、その忘れてしまうのも何だか嫌で、やはり父に対してあんなに冷たい態度のまま別れてしまったのも、今更後悔で、父と母と三人でいる時のあのあったかい空気感を、まだまだこれから先も感じていたかった。
人付き合いを小さくしている私にとっては、あれは唯一甘えられる、子供に返れる優しい時間だったのに、父の言うように「気持ちを切り替えて、そっちの世界で楽しく生きていくんだよ」って、出来ないですよ!!!!!

こうやってメソメソしている姿は、旦那さんに見せられなくて、彼の前では何があっても通常の精神状態にしないと、逆ギレされて、怒鳴られて酷い目に遭う事は目に見えていて、「今まで育てもらったお礼も言えなかった」と言ったら「産んで欲しいと頼んだ訳じゃないから、育てるのは当然だ!」って言う位の人ですよ。父と母のように、言いたい事を言い合って、喧嘩しながらも仲良しな夫婦にはなれないし、もし旦那さんが突然亡くなっても、こんなに心から悲しまないと思うので、旦那さんに父の分まで愛情を注ぐ気持ちになれないし、どうしたら亡くなった今でも、父を感じたり、寂しくなったりしないですか?

時間が解決する以外ないなら、本当に辛いし、私は「過ぎちゃったことは仕方ない」ってなかなか思えない人だったみたいで、前を向いて行こう!って頭で理解していても、父の存在がこんなに大きかったって、今初めて気付きました。
どうか、忙しくしていたら時間と共に自然に忘れていく、という方法の他に父の温かさや父の存在を感じながら、これからも生きることは出来ませんか?
例えば、父の事を思い出して泣いたり、又はほっこりすると思う思い出を思い出すことをこれからも続けていくとか、(←これはやはり喪失感がより強くなるかもですが、感覚的には思い出すから、あえてやってみるとか?)
後は父の事を文章に、以前も書いた事はありますが、今回の死についても出来るだけ詳しく書いて、父を知らない人にも知ってもらって、父が生きていた事を残すとか、後は私が何かする時に父だったらどうするかを考えて、父から受け継いだ事を他人や母になるべくしていくようにするとか(←ただ似ている部分と、やはり人間自体違うから、私本心では出来ない、父の真似は出来ない部分もあると思いますが)
、後は老人ホームでの仕事を、いつ亡くなってもおかしくない方々だと気持ちをもっと引き締めて、父に出来なかった最後のマッサージだと思って、丁寧に行うとか(←これはやはり相手が父じゃないから、やはり気持ちが入らないかな?)
後は父とお話ししたくなったら、あかりさんにお願いする事は出来ますでしょうか?
父からのメッセージは前回受け取りましたし、呼び出されるのは面倒臭いと思ってるみたいだし、亡くなった人と話すこと自体ルール違反でしょうから、気持ちを早く切り替えて!と言われるだけだとは思いますが、父からのメッセージを要求するのではなくて(父は無口だから話すのは苦手だろうし)私から話しかけて、お話しする事もダメでしょうか?
前回はもうこれからも何も言わないと言っていましたが、父のあの死に方はあまりにも残された人にとって残酷です。
気持ちを切り替える事は難しく、前回も言って頂いた通り、私は「感覚が素直」なら、今はそれがマイナスに働いていて、私らしく「そのままでいいんだよ!」の言葉を受け入れたら、このまま悲しい寂しい気持ちのままです。

父の事をもう少し知りたいのですが、この世の去り際を自分で決められるって、もちろん自殺ではないですよね?予期せぬ事故だったんですよね?午後からも働く予定だったし、健康ショップの予約も母と二人で次の日に予約を自分から入れていたし、お正月の事も話していたり、旅行も行きたいと言っていたり、まだ生きるつもりがあったんですよね?でも母には「いつ逝ってもいいけど、お前が寂しがるからな」と言っていた事があったそうなんです。

私や母がこんなに悲しむような死に方で、母なんか目の前で死んでいくのを見てしまって、しかも自分がお昼を食べようと、その店に誘ったせいだと思って、自分を責めて、いつも父はお昼は食べない人なので、もし誘ってなかったら、もしもっと柔らかい物を食べさせていたら…と悔やんでも悔やみ切れません!
私にも足が丈夫なうちに、どこかへ行きたいと言っていましたが、行かないままだったし、それでも本人は執着や後悔は全くなく成仏出来ているのでしょうか?

父はずっーと死ぬ間際まで働き続け、唯一の趣味の競馬も、ぼけて迷子になってしまうから、以前程行けなくなっていたし、「治らないのかな?ずっとこのままかな?」とボケの事を悲観して、辛そうにしていたり、美味しい物もそれほど食べていなかったし、父の人生はやりたい事、好きな事を後悔なくやれていたのか、去り際が本当にあの日で良かったのか、今更言っても仕方ないのですが、理解が難しく、そして自分はピンピンコロリでいいかもしれないけど、残された母と私がこんなに悲しみが大きい事を考えず、それでも去り際はあの時だったのでしょうか?

生前、父の理解者は母だけでしたが、あの世では母無しでも楽しく出来るのか、それとも母にも早く来て欲しいとは思ってないのでしょうか?先に死んだ両親やお兄さん逹と再会して、母無しでも楽しく出来ているのでしょうか?

「オマケの人生」って、理解は何となくわかるような、わからないようなですが、父は何か特別な事をする訳ではなく、掃除のような誰でも出来るけど、あまりやりたがらない、感謝もされない、日の目も見ない仕事をずっと家族の為にしてくれていて、それは素晴らしい事だけど、本人にとっては楽しみややりがいはないだろうし、すごい偏食でタバコ好きで、タバコは吸ってる人より周りの人に害なのも知ってて止めなかったり、ボケてからは母によく感謝して、穏やかな時もありましたが、暴言吐きながら仕事してることもあったそうで、私が一緒に住んでいた子供の頃は、短気で怒鳴られたり、足が出ることも確かあった気がします。「あらゆる学びは終わっている」ような人格者?ではなく、私は父が嫌いだったり苦手だったから、そしてずっと貧乏だったので、お金が大事だと思って、早くから自立しました。

そして、父とは真逆の仕事やパートナーに惹かれて、父は全く見本にならない人物でした。
それでも、「最初から天界の人」?や「生きている時も、半分そっちの世界にいたような」人だったのでしょうか?
今こじつけで考えるとしたら、通帳からお金を下ろしたり、お金の管理や料理や一人で生きていく術は全くなく、ボケてからは迷子になってしまうので、母無しでは行方不明になってしまうから生きていけない大きな子供のような人で、お金や世俗的な名誉欲、物欲、食欲、自己顕示欲は全くなく、人間関係も母と姉だけだし、人に対して何かってことはなかったと思いますが、そういった面で天界の人?みたいな意味ですか?

私は父の子でも真逆で、そういった欲にまみれて、生きていて、父を真似しょうと思っても無理で、子供の頃から父の姿を見ていて、こうなりたくないと思ってしまっていました。私が今のようになったのも、父と全く違うパートナーを選んできた事も、父の影響は大きかったと思います。
…でも、母と話していたら、父は確かに何も出来なかったけど、「優しかった」と。そしてとても真面目でボケてからも生活費を心配して(実際は年金生活だったのに)、もっといっぱい働かないとやっていけないだろ?と言っていたり、家族の為に働く誠実さ、勤勉さは頭が下がります。入院した74歳の時まで、定年過ぎても契約社員として朝早くから夕方まで働いていたし、ボケ始めてからもシルバー派遣で、公園の掃除の仕事を、亡くなる最後の日までやっていました。

私の旦那さんは、公務員だからお金も安定して稼いでくれて、楽させてくれるし、料理も出来るし、頭も良くて、尊敬できる仕事で、沖縄に年に何回も連れて行ってくれるし、医者にもよく診てもらうから、自分が健康でいたい欲も強い(長生きするでしょう)、でも私の感覚を素直に表現したとしたら、受け止め切れない人だから、父のような優しさは全く無いです。

父は私が決めた事に関して、どんな事でも100%私の味方で、100%肯定してくれる。旦那さんは逆で、まず自分の意見に私を従わせるし、私が感情的になる事を嫌う。

でも以前、あかりさんが仰っていたように、『優しさ』や『愛』の表現が父と違うだけなのかも?と思うと、私に自由にやらせてくれる環境をくれたり、泣きたい日には一緒に寄り添ってもらうのではなく、私を一人にさせてくれる、ある意味それも形の違う『優しさ』や『愛』なのかな?って。

父は私を全肯定してくれて、優しかったけど、父みたいな何も出来ない人と結婚してたら、私は母のように献身的ではないし、やりたい事が出来ない!と恨むかもしれません。

父と私は似た部分はあっても、違う魂で、だから父から受けた無償の愛を忘れないで、現実的には今の旦那さんに自分のやりたい事やいろんな世俗的な欲を満たさせてもらう、この生き方、この今を父ではなく自分の価値観で生きていくしかないのでしょうね。

父はもう成仏してしまっていたら、先日の葬儀や私と母がこんなに悲しんでいることも、例えば私が今後幸せに暮らしてる所も全て、見てはいないんですね?
私が「お父さん!お父さーん!!」って泣き叫んで呼んでいても、成仏していたら届いてないし、見守ってくれてもいないのでしょうか?
私が死なない限り、父と会うことは不可能で、こんなに残された人を悲しませる死に方でも、もちろんお構い無しで、私が父をまだまだ感じていたいと思い続けたら、成仏を妨げますか?

もしかしたら、あかりさんにお願いしなくても、心の中で父に話しかけたら、それは届くのでしょうか?
でもやっぱり不確かで、父の言葉が欲しかったら、あかりさんを通して、父とお話ししても向こうは嫌じゃないですか?(前回の内容では呼ばれるのは面倒臭いとか、もう切り替えているみたいですが、残された方はスッキリ行かないから、しょっちゅうではなく、今だけとか)

後気になるのは母の事で、先日の葬儀の後、父の遺骨を運ぶのを手伝って、玄関のドアを空けて聞こえてきた姉の声が「メール見てないだろ?カップ麺買ってきた?」って…。
いくら知的障害でも、傷心の母に心が無さ過ぎる。
もう少し母に優しくなれたり、普通の会話が出来るようにとか、急に生まれ変わったかのように正常になる事は不可能だと知っていますが、このままだと父の時のように「母より先に迷惑かけないような形で、コロッと逝って欲しい」と願ってしまいます。

でも父と姉は仲良くなかったから、父も向こうで再会したくないだろうし、来てもらっても父にもかわいそうだけど、生きていても母の迷惑(母を傷付けないか心配)になるから、心を入れ換えて、父の優しさを思い出して欲しいです。
その為に何か出来る事はありますか?姉を変える事は出来ませんが、傷心の母の側に私はいれないから、心の通った友人達に母を助けてもらうよう願ったり、姉がこれ以上母を傷付けないように願ったりするしかないですか?どうか姉の死を望んだり、姉を恨んだりせずに、母とこれからも二人で幸せに暮らす事を願うことで、その通りになるでしょうか?

それから、もし去り際が自分で決められるなら、晩年ボケて母と行動を共にするようになったのも、魂の計画で、最後はもっと沢山母との時間を過ごしたいという思いからでしょうか?そうだとしたら、私はより酷い考えで(母の迷惑になると行く末を案じて、父のボケを疎ましく思って、父との最後の時間だったのに嫌な感覚をぶつけて)後悔することになったし、母は元々50年一緒にいた上に、晩年四六時中一緒にいたことで、仲良くし過ぎて、目の前で亡くなった悲しみは大き過ぎます。ボケは父も自分ですごく治したかったし、生きているのが辛そうだったようでしたが、全ては死期が迫っている事がわかった上で、無意識に魂がそうさせちゃったのでしょうか?
どこか旅行したり、美味しい物食べたりするより、母と日常をより長い時間過ごす為の、魂の本当に求めている望みを満たす為のボケだったのでしょうか?
確かにMRIやCTでは異常はなかったのです。
もし、父に伝えることができるなら、家族のために死ぬまで一生懸命働いてくれて、本当にありがとうという感謝の思いと、旅行に一緒に行けなくて、ごめんねと、ボケが嫌なだけで、父が嫌なのではないのに、一人しかいない父がこの世からいなくなるより、ボケてても、迷惑かけててでも生きてて欲しかったよ!遅すぎるけど、あの時の言葉も思いも全部取り消したいよ!それから、尊敬しているよ!私は絶対出来ない事(家族の為に働くとか、母一人を愛して信頼して任せること、私と姉を自由にやらせてくれて、どんな状態でも100%味方で愛してくれた)その愛、わかりにくかったけど、今は十分過ぎる程わかるし、素敵な大好きなお父さんだったよ!今、もうコレを閉じて終わろうとして、その後偶然見た動画で、自分の嫌いな人、やりたくない事を先に考えたら、自然と好きな人、やりたい事がわかってくるって話で、父の存在は私にとっては正にそれで、絶対父みたいに出来ない‼️したくない!って、全く違う人生や人を、私は求めたんです。でも、亡くなってみて、やっと父の偉大さに気付けたけど、父がもし、父みたいな人じゃなかったら、反面教師にならなかった!
すごく感謝の言葉や尊敬してる!とか上げといて最後に、けなしているみたいな感じになってしまったけど、とにかく私の今があるのは父のお陰です!ありがとうね!この世に私を生み出してくれて感謝します!そして今まで身体を酷使して、お疲れ様でした!お父さんの分も、お母さんを大切にするし、何も出来なくても大切に思うよ!いつか会おうね!その時はたっくさん話そうね!約束だよ!ごめんなさい‼️これで今度こそ最後にします!
今又動画を見て気付いたのですが、ペットと飼い主のような関係は、ペットは魂の成長が目的とはいえ、人間界と違って、お金や地位名誉や損得勘定無しで、飼い主を励まして愛を注いだり、飼い主からの愛をただ受け取ったりの愛のエネルギー交換だけを純粋にするだけと聞いて、父も母との愛のエネルギー交換だけをする魂の目的だったら、最後まで母と一緒に過ごし、母に気にかけてもらい、最後を向かえたのは周りから見たら、もっとしてあげたい事があったと思っても、それは余計なお世話で飼い主の腕の中で死んだペットみたいな感じで、飼い主との愛さえあれば、現世的な欲はペットならなかったはずですよね?
父も母との愛のエネルギー交換だけをする魂の目的だったのでしょうか?

あかりさんのお返事です。

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ななちゃん
こんばんは!これはものすごくむずかしいことなんだ。ちょっときょうは、たくさんのことをきかれてはいるから、すべてにこたえられないとおもう。そして、う~ん、、コトバのゲンカイをぼくはかんじていてね。だから、ちゃんとつたわらないかもしれない、でも、ななちゃんのなかで、ちがうなっておもったことは、ちがうってキョヒしちゃっていいとおもう。ぼくがいっていることは、あくまで、ぼくがみえたことだけだからね。ぼくはそれを忖度(そんたく)をせずに、そのままつたえていけたらっておもうんだ。
さびしさをどうしたらなくしていけるかだね。う~ん、さびしさがなくなるっていうことは、ほんとうは1ばんいいのは、いまのむこうのセカイでのおとうさんっていうのを、映像でみせれたら、1ばんてっとりばやいっていうかね。たとえば、う~ん・・これはたとえだから、そのままだとおもわないでほしいけれど、たとえば、おとうさんがむこうのせかいでは、わかがえっていて、すごく女性にモテモテで、バカンスをたのしんでいる。そういうかんじだとおもってもらえると、たぶん、かなしがっていることがすこしばかばかしいなぁっておもえるんだとおもうんだ。のこされたひとたちは、そのかなしい場面でとまってしまっているから、そこから逆算でカコでみていくしかないんだけれど、しんだあとは、解放(かいほう)されて、イガイにとてもジユウになっていて、しあわせになってしまうってことがおおくあってね。いまのおとうさんの姿をみると、「お笑い」ではないけど、「つっこみ」が、はいるとおもうんだ。「もう!かなしんで損したわ!」っていうようなね。むこうでもイチズにおかあさんやカゾクのことだけをおもいつづけてって、こっちのいきてるヒトはおもうんだけれど、むこうのせかいっていうのは、そうではないから、成仏をしてるヒトっていうのは、すごくはやくじぶんのおもいどおりのセカイをたのしむようなことができるんだ。だから、おとうさんにかなしさや執着はいっさいなくてね。これがあると、成仏できないんだ。だから、成仏しているおとうさんにとっては、よばれることのほうがイヤなんだ。どうせ、みんなもあとでくるんだから、そのときにしてくれって、おもっていてね。すごくへんなハナシだけど、むこうのセカイにみんなでいったときには、オワリがないから、ずっといっしょにいることだって、のぞめば、できるんだ。だから、このヨにのみ、イチジテキなオワリがあってね。おとうさんは、それを解放だとおもっていて、たぶんこの「かんぜんにじぶんがジユウになったかんじ」っていうのは、ななちゃんもわかるとおもうんだ。ヒトといっしょにいすぎたときに、ヘヤでひとりだけになりたいなぁっていう、ハネをカンゼンにのばせるようなカンカクだね。それがいまのおとうさんにはあるから、
おとうさんは、いまはほうっておいてほしいっていうオモイがつよいんだ。だから、ぼくがよぶことも、おとうさんは、あんまりいいオモイをしていないとおもう。それをコトバでいうヒトではないけれどね。居留守じゃないけれど、よんでもつかまらないっていうかね。むこうのセカイのバアイは、むこうに受けるかどうかのジャッジがあるから、むこうが通話(つうわ)を拒否してきたら、もうつながることはできないんだ。そしておかあさんなしでやっていけるのかどうか?っていうことの問いは、カンタンでね。おとうさんのコトバだと「おまえたちだって、いま、かわらず、生きれてるだろ?」っていうこたえなんだ。やっていけるかどうかじゃなくて、やっていけちゃってるだろっていうようなかんじなんだ。おとうさんがしんだからって、おなかがへったら、ゴハンをたべるし、ねむくなったらねむるだろ?そんなもんだっていうキモチなんだ。たぶん、このカンカクのズレっていうのは、むずかしいとおもう。達観していないと、こうはならないんだ。もっといろいろとつたえたり、いっしょにないたりっていうことが、成仏しきれていないヒトのばあいはおおいんだ。でも、おとうさんはそういうかんじではなくて、めめしさがないんだ。これはしかたないことだけど、ずっと葬式をひきずってしまっている、ななちゃんたちと、むこうで、たのしくバカンスをしているようなおとうさんだと、背景のイロがちがうっていうかね。
テレビ通話でもあって、エイゾウをそのまま、みせてあげれれば一目瞭然なんだけれど、それはできないから、なんとかコトバでリカイしてもらうしかないんだけれど、おとうさんは、ぼくにもメッセージをくれていてね。おとうさんは、ぼくには「もうことわってください!笑 キリがないから」っていうんだ。かなしいなら、かなしませてあげてくださいって、それはもうシカタないことですからっていうんだ。なにをどうなぐさめのコトバをいったって、かなしいときゃかなしい、他人ができることなんてなんにもないっていうようなイイカタをしていてね。だから、ぼくからおとうさんのことでいえることは、ほんとうにコンカイでサイゴにはなるとおもう。 去り際が唐突なのはジンセイっていうのは、前触れがないってことを身をもってあらわしているところもあって、それは、いまはのこされたガワとしてしることができたけど、じぶんもいつかまえぶれなく、このよをさるかもしれないわけでね。そうなったときに、それは酷(こく)だなとおもうバアイは、ななちゃんは、まだいきているから、そうさせないように、反面教師にして、フダンからつたえていくことはできるとおもうんだ。おとうさんは、このあたりがあるいみ、達観していて、まえぶれがないことがじんせいだっておもっていたし、そういうものだってわかっていたようなんだ。だから、タイセツなだれかがしんでしまうときに、100%コウカイがないなんてことは、経験上ないとおとうさんもおもっていたし、だからといって、セカイがそこでおわるわけじゃない。だから、いまできることは、泣くことしかないなら、ないたらいいっていうオモイしかおとうさんにはないんだ。泣くなっていわないヒトでね。泣くことも喜ぶことも怒ることも、どれもタイセツだとおもっているんだ。泣けるってことは泣けることを経験したってことでね。涙がかれるまでないたらいいっていうんだ。おとうさんふうにいうと、なきたいときはないたらいい、そのうちなくことにもあきてしまうからっていうかんじなんだ。泣くことに飽きるってヒョウゲンは、やっぱりとてもおもしろいひょうげんだとおもう。おとうさんは、じぶんのために、なにかをしてほしいともおもっていないし、ななちゃんにたいして、説教じみたことをいうヒトではないんだ。ああしろこうしろともいわないっていうかね。それは、じぶんもそうだったけど、その生きてるジカンっていうのは、カギリがあって、そのジカンをどうつかうのか、それはひとりひとりのじゆうでね。そして、そのジカンっていうものは、どんなオカネモチでも、どんな偉人や有名人にとっても、
ひとしくおなじものでね。だから、そのタイセツなジカンは、じぶんのためにつかったらいいって、そんなふうに、おとうさんはおもっていたみたいなんだ。じぶんがだれかのためにっておもうならやったらいいけど、そうおもわないなら、いっさいやらなくていいってヒトなんだ。ちょっとつたえるかどうかまよってしまうんだれど、、、じぶんがすることに、たにんを理由(りゆう)につかうなっていうのが、おとうさんはあるみたいなんだ。だから、おとうさんのことをかってにおもって、おとうさんのためにとか、おとうさんだったらっていうのは、これは、おとうさんはよろこばないんだとおもう。おとうさんのナマエをかってにつかって、おとうさんにセキニンをおしつけないでくれっていうようなオモイがあるみたいなんだ。これは、ほんとうにイヤがってるかんじだったよ。だから、ななちゃんがしたいとおもったら、ななちゃんのオモイでするならいいんだけれど、おとうさんのためにとか、意志をくみとってっていうのは、おとうさんはイヤみたいだよ。でも、それでも、しにんにくちなしではないけれど、とめることはおとうさんにはできないから、おとうさんの意志をくみとってってやりたければ、それはもうなにもいわないってかんじだとおもう。
おとうさんのサイゴは、ジサツではないよ。ただ予期せぬ事故かっていうと、そのひにかならずってことではなかったけれど、そうとおくなかったんだとおもう。それは、いくつかリユウがあるんだけれど、おとうさんの感覚では、このセカイでたのしめないキがしたからなんだ。それは、マイナスなことではなくて、さっきの泣きつかれるっていうことにも、すこしにているけれど、これはおとうさん独特のかんじで、たぶんリカイはむずかしいとおもうんだけれど、おとうさんのバアイは、腹いっぱいをよしとしていないようなとこがあってね。「じぶんはココらでいい!」って、あるていどのところでしたかったところがあるんだ。100%のチカラをだしきって、ズタボロになっておわるよりも、イシキがあるうちにっていうのはあったみたいなんだ。このあたりは、ななちゃんにもちょっとわかるんじゃないかとおもう。ななちゃんもしってるように、すこし認知もすすんできてしまっていたところもあるし、じぶんがたのしめたカンカクをかんじれなくなってしまうなら、これは、そろそろキツイぞっておもったところがあるんだ。これはヒトによって人生観や死生観はちがうから、正解はないんだけれど、おとうさんはすくなくとも、アタマがまだクリアなうちにしんでいきたいっていうオモイはあったんだ。なんだかよくわからず、イノチのトケイだけがすすんでいっているっていうのは、おとうさんはイヤなヒトだったんだ。だから、おとうさんは、やりのこしたことっていうのはないんだ。しっかりと成仏しているし、後悔や未練は1つもないよ。ただ、生前そんなかんじではなかったとおもうし、生前のことでかんがえたら、そうはおもえないとおもう。でもしんだあとっていうのは、イッキにカイホウされるようなところがあってね。これも、成仏をすぐできるひととできないヒトがいて、そのちがいがあるから、みんながそうってわけではないんだ。生前の直前のおもいのままってヒトもいるからね。でも、おとうさんはそうではないとぼくはおもう。おとうさんのばあいは、つねに、あしたしぬかもなってキモチでいきていたところがあるんだ。
それはげんきなときから、そうなんだ。そういうキモチでいきていたから、マクヒキはいつきてもいいというオモイがあったところがあるんだ。そういうイキカタをしていたところもあるんだ。だから、ななちゃんがいっているように、おかあさんの執着がおとうさんをひきとめていたところはあるんだとおもう。でもね、たとえば、これがもうすこしおそくなってしまってのワカレだったら、おかあさんは、体力的にも精神的にも、喪失にたえられなかったとおもう。だから、いまのタイミングじゃないとダメだったところもあるんだ。かなしさや喪失をのりこえるのには、パワーがいるからね。
それは、いま、ななちゃんがなによりかんじていることだとおもう。だから、すこしでもまだゲンキなうちでないといけないっていうおもいはあったとおもう。ただ、おとうさんのバアイは、それがかなしいカンジのワカレではなくて、もっとあかるいかんじなんだけれどね。
いろいろとたくさんのシツモンがあって、すべてにはこたえられないけれど、おとうさんが人格者かどうかっていうのは、ななちゃんがそうじゃないとおもえばそうではないんだとぼくはおもう。それは、どうしても、そのひとそのひとがおもう人格者のようなものがあるんだとおもうんだ。ぼくはぼくがみえることをつたえることしかできないから、ぼくからみたおとうさんは、とっても人格者だったとおもう。ぼくはこういうシゴトをしているから、そういうヒトにあうことは稀なんだけれど、すくないけど、おとうさんのようなかんじのヒトっていうのはいるんだ。でも、なにかトクベツなことをしたヒトってわけではないし、ヘイボンなヒトなんだ。いろいろなグルメをたべあきたひとがサイゴは、質素な白米だけにたどりつくみたいなことだとおもう。カタチはカンケイないっていうかね。 これはつたわらないかもしれないけれど、「人格者にみえるひと」「人格者にみられたいひと」と「ほんとうの人格者」っていうのはきっとちがうかもしれないんだ。
たとえば、すごく有名な人の発言ならただしくて、そうではないだれもしらないようなひとの意見がただしくないかっていうと、そんなことはないんだ。ダイジなことは、みせかけや、みためや、カタチではなくてね。あんがい、ほんとうの人格者っていうのは、じぶんが人格者だとおもわれたくないヒトなんだとおもう。募金をたくさんしているとみんなに言ってる人と、募金なんてするやつは偽善者だ!とかってグチをいいながら、じつはうらで1ばん募金をしているヒト。どっちのほうが人格者なのか、そういうことにちかいとおもう。ほんとうの人格者は人格者だとおもわれるヒツヨウはないんだ。
太陽がじぶんは太陽ですって自己紹介をしないように、もっとみせない隠し味のようなかんじになってくるんだとおもう。たにんに人格者だとおもわれるおこないをしないっていうのが、イガイにホンモノかもしれないよ。でも、このへんは、ひとそれぞれになってしまうとおもうから、ぼくはななちゃんのいうことも、正解だとおもうし、これはそうおもわなかったら、おもわない!で、いいんだ。ぼくのいってることはすべてただしいとかってことではなくて、ぼくがいったことでもちがうなっておもったら、ちがうでいいんだ。ななちゃんがおとうさんじゃないヒトをパートナーにえらんだっていうのは、ななちゃんもいってるように、おとうさんのイヤなブブンをみて、おとうさんじゃないヒトをえらんだわけで、そしたら、ケッカテキにおとうさんというひとがいたから、セイハンタイのセイカイをえらべたわけでね。でもそのセイハンタイのセイカイだとおもってつかんだヒトとのアイダにも、いろいろとタイヘンなことはあるとおもう。
レベルとか段階っていってしまったのが、優劣のようにきこえて、まぎらわしくなってしまったけれど、みんないつかはかならずたどるところで、いろいろとへていくと、ストレートなカタチやヒョウゲンではなくなるところがあるんだ。でも、そのことを1つ1つコトバでセツメイしていくのは、むずかしいから、それは、そうだなぁとおもったときに、そうおもえばよくてね。おもわなければ、おもわなくていいんだ。せいかいはないからね。そして、すごくむずかしいことだけれど、ななちゃんがカンゼンにナットクするってことは、ぼくにはつたえることはできないとおもう。それは、コトバにはゲンカイがあって、百聞は一見にしかずってコトバではないけれど、じっさいにじぶんがしんだときに、1ばんしっくりわかることでね。でもそれはできないから、どうしても、このふたしかなコトバというものをつかってひょうげんしていくしかないんだけれど、それにはゲンカイがあるんだ。だから、とてもむずかしいことだけれど、ななちゃんにはななちゃんのオモイがあるとおもう。ぼくは、それをヒテイをしないし、ななちゃんのおもってるこたえにちかいことをいってくれるヒトもいるとおもうんだ。どのセイカイをとるかは、ななちゃんがきめていくのがいいんだ。ぼくは、ぼくのみえたことをそのままつたえていくけれど、これをそのままそうだなっておもえなければ、おもわなくていいとおもう。ぼくが、ななちゃんのタチバでもきっとそうだとおもうからね。そんなはずない!っておもったら、それはそんなはずない!でいいんだ。ななちゃんのオモイはちゃんとつたわっているし、みまもってはいるからダイジョウブだよ。ただ、ここも見解がわかれてしまうところだとおもうけど、1ばんじぶんのこどもがほこらしいとおもえるのって、オヤがみていなくても、がんばれてるときなんだ。だから、おとうさんは、ななちゃんのことをしんじているし、あれこれオヤがいったりしないといけないコじゃなくて、じぶんできりひらけるこだってしっているから、道をオヤがきめたりってこともしないし、ましてやしんだあとのニンゲンができることなんて、キタイするほどのことなんてすこしもできないぞ?っていうかんじなんだ。だから、ちゃんとみてるけど、生きてるのはななちゃんジシンで、みまもってるっていうのは、もじどおり、みまもるってことで、みるだけで、てをかせるわけじゃないってことはしっておいてほしいみたいなんだ。いろいろとききたいことはあるとおもうけれど、これいじょうは、ナットクのいくこたえをあげることができないところもあるし、ぼくはあまりコトバがうまくないから、ちゃんとセツメイができないところもあるとおもうんだ。ぼくがみてきたものをそのままつたえるようなかんじだけれど、それはみてないひとからしたら、そんなはずないっておもうことはおおいとおもう。ぼくがぎゃくのたちばでもそうおもうからね。でも、ぼくもウソをつくことはできないから、みえたことをそのままつたえてしまったけれど、おとうさんが成仏していることはたしかだし、むこうで再会できることはたのしみにしている、これだけはたしかなんだ。
だから、いまはかなしいのなら、かなしいとおもうことにあきるまで、かなしむ、泣きあきるまで泣く!そうすると、さすがに、もうなけなくなってきたなってときがくるらしいんだ。だから、なにをどうしたって、セカイはかわらずまわっていて、イノチがあるかぎりは、かなしくてもなんでもいきていかなくてはいけないから、じぶんたちのイシにカンケイなく、おなかもへって、ねむくなる。あした、となりのヒトがたおれたって、かわらずセカイはまわっているし、ながいジンセイでかんがえると、つかのま、かなしむけれど、それでも、かわらず、みんなあるきつづける。そんなふうなのが、にんげんのジンセイ。でも、だからジユウにいきていける。じぶんがなにをのこしたのかなんてかんがえなくていいっていうんだ。泡のようでいいっていうんだ。いっしゅん、いっしゅんをたのしんでいたら、あんがい、すぐにさいかいできるって。だから、こたえのでないことに執着をしたり、きにいらないことにグチをいうよりは、自分勝手でもいい、じぶんらしくいきるでいい、どうせ、しんだらみんな、わすれてくれる!(むこうのセカイで再会するまでは)恥も失敗もなにもかも、だからいい!わすれていけるのがいい!そんなニンゲンのずぶとさや、いいかげんさがおとうさんはすきだったんだとおもう。たしかなこたえがあるわけじゃなくて、きょうときのうでいってることがかわったっていい。じぶんなんかのいってることに、それほどのおもみがあるジンセイでもない、ときに都合がわるかったら、おぼえてないフリをしたっていい。かっこよくいきなくたっていい。「したたかに生きろ」っていうことがサイゴのメッセージだとおもう。 おとうさんのことは、これでサイゴにしてもらえたらっておもうんだ。これいじょう、掘ってもきっと、おなじことのくりかえしになってしまって、たぶんそれはおとうさんが1ばんいやなことだとおもう。ぼくは、おとうさんをくるしめることはしたくはないし、しつこくして、おとうさんにきらわれたくはないんだ!だから、ぼくは、おとうさんのジャマをすることは、もうできないから、もしおとうさんのことをききたいばあいは、ぼくではないべつのうらないしさんにおねがいするのがいいとおもう。コトバでセツメイするのがむずかしくて、いろいろとまよわせてしまってごめんね。でも、ななちゃんにはななちゃんのオモイがあるとおもう。だから、そうじゃないとおもったものは、そうじゃないをつらぬいていいんだ。ぼくのいってることは、ただのぼくがみたものであって、それはみんなにとってのセイカイではないとおもうからね。おとうさんのことは、ぼくがつたえられるのはコレでサイゴになってしまうけれど、すこしでもななちゃんのなかになにかをかんじてもらえたらとおもうよ!ながくなってしまってごめんね!

 

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…以上です。
父の事を聞くのは最後にして欲しいと、困らせてしまったけど…。
確かにコレを読んだら、もう涙は出なくなりました。
私も前を向いて行きます‼️
・・・と、思ったはずが、

私からあかりさんへのメール

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あかりさん

実は父が亡くなってから、今まで楽しめていた事が、それほどではないなと感じてきてしまって、何をしても、願いが叶っても虚しさを感じます。

例え話だとわかっていますが、父があの世で若返って女性にモテモテで、もう身体の痛みや、死別等ない世界で、終わりなくバカンスを楽しんでいるようなイメージをしたら、この世での一時の成功やお金を得たりも、あの世の幸せに比べたら、全然幸せじゃないな、と思ったり。

今までは施術以外でも、美味しい物を食べる事が大好きだったし、その時は生きている事が喜びで、私は食べる為に生きているんだ!美味しい物を食べる為に、お金を稼ぐんだ!って目標、目的があったのですが、父の死後、意識的に美味しい物を食べていますが、どれも一口二口のみで、それ以降美味しいという感覚は続かず、何とも思わなくなってしまっています。
以前は「美味しい♪」って感覚をずっと長く感じる事が出来て、食べ終わっても、次回の楽しみまで感じる位、「もっともっと♪」と貪欲に食べたい欲が終わらなかったのに、今は全然違います。
そうなってしまった今、何を楽しみに生きていけばいいのだろう?ととても虚しいです。

私はただでさえ趣味や好きな事、友達も少なく、それなのに仕事や食べる事の生き甲斐、やりがいがなくなって、ただ命の時計だけが回って、時間だけ過ぎていきます。
父に言わせれば、「人のせいにするな」と言われそうですが、敏感だったはずの味覚や感覚が鈍感になる事はあるのでしょうか?
それとも、今すぐ通常の生活に戻らなくても、もう少し休んで(父の事を考えなくなる日まで)無理に何か特別な事(仕事や美味しい物食べたり)しないで、自然な心の回復を待つべきなのでしょうか?

父のメッセージのように、いつあっけなく死んでしまうかわからないのだから、やりたい事をやるんだよ!という事もわかるのですが、私独自の施術もあまりやっている人がいない上に、私自身が受けたい施術だから、その施術をやると、自分も癒されるし、求めている出来るだけ多くの人に提供したい!っていうやりたい事は、まだまだこれからだから、今死んだら後悔しそうだけど、何より身体が疲れると、やらないで寝てる方が良いと思ってしまいます。
これは今が父の死から10日位だから仕方ない事なのか、(時が経てば元通りのモチベーションに戻れるのか)それとも父の死後急に価値観が変わって、今まで好きだった事も、これからは別にやらなくていい事だというお告げなのか、私には他にも道があって、そっちの可能性を示しているのか?何なんでしょうね? 
自分が今、こういう状態になったら、父のように、特にやりたい事も食べたい物もなく、あらゆる欲(金欲、物欲、性欲、健康欲、夢実現欲、会いたい人に会いたい欲)もなく、ただ生存しているだけなら、あまり苦しまずに死ねた事は良かった事かも、とよくわかりました。
そして、あの世で羽伸ばしているのなら、尚更、そうなる事を私も望むように思います。

本当は身体があるからこそ、素晴らしい!と思える事をする事(施術や美味しい物を食べる事)を私はしたい、「今」を生きている実感を感じたい、それが私の喜びだったのに…。
でも「今」の私の唯一好きな事は誰にも邪魔されない時間を過ごす事(一人でヨガをしたり、寝たり)後は、あかりさんの鑑定を読む事は、本当に唯一わくわくする、私の楽しみです。
父の事を、今更ですが、知る事ができて、本当にすごく興奮してしまいました!興奮って表現下手だけど、スゴく興味深かったです。
父が人格者って、気付けない自分の見る目のなさに気付けたり、改めて母や姉や叔母について考えたり、魂やあの世や死について知ったりする事の奥深さを感じて、他の事に興味が薄れても、この事だけはもう少し知りたいという気持ちになりました。

あかりさんのお返事の一部

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しあわせってことだとおもうけれど、しあわせっていうのは「形」があるわけじゃないんだ。Aをえらんだら、Bのほうがよかったなってかならずおもってしまうものなんだ。でも、AをやめてBをえらんだら、こんどは、Aのほうがよかったっておもってしまうものなんだ。だから、ダイジなことは、しあわせっていうのは、だめなこともふくめてしあわせなんだ。だから、奈々ちゃんにかぎらず、フウフはアイテのいいところだけほしいとおもってしまうけれど、わるいぶぶんもうけいれてあげて、はじめて100%みたなところがあるんだ。これがわからないと、どこかに100%しあわせのカタチをしたあいてがいるとおもって、離婚と結婚をくりかえしてしまうヒトになってしまうんだ。もちろん、そうはいっても、イヤなことをうけいれるのは、イヤなことだとおもう。でも、じぶんのことも、ほんとうは、アイテのなかではイヤだなっておもうブブンもたくさんあるかもしれなくてね。それでも、いっしょにいるってことは、スキってことだとおもうし、くりかえしになっちゃうけれど、しあわせってかんがえると、ヒトは、100%しあわせっていうものがあるとおもってしまうんだけれど、50%はあまいけど、50%はにがみでできているようなところがあってね。50%のにがみをあまみにかえるってことではなくて、そのにがみも、なんだかそのヒトらしいなとおもえるようになると、よくなってきたりするんだ。よくしんだひとのことをおもいうかべるときに、いいことよりも、あのときケンカしたなとか、ぶつかったなってわるいことがおもいだされるけど、でも、なんだかそれは、いまとなっては、イイオモイデだったなって、あとでかわることができるみたいに、ニガミっていうのは、そのときは、にがいけど、あとにおもいだしたときには、なんとなく、よいニガミっていうかね。あまくなるわけじゃないんだけど、そんなこともあったなっておもいだせる、つよいスパイスになってくるんだ。ニガミのほうがおもいだせるんだ。だから、いがいにぶつかったり、イヤだなっておもうことがよかったりもするんだとおもう。でも、わかれちゃうと、それはなくなってしまって、0になってしまうから、できるだけ、すべてをケイケンじゃないけど、スキになるひつようはないけど、しってあげるってことがしあわせにはタイセツなことなんだとおもう。キズつけられたキズもいとしいとおもえるのは、そのひとをホントウにあいしていないとできないことなんだ。でも、そこまでおもえるヒトっていうのは、なかなかいないから、それができないからって、あいがないわけではないから、そこはおもえなかったら、おもえないでいいんだ。 そしてコンカイ、たぶん1ばんダイジなことはね。これは、カンカクだから、そうおもえなければおもわなくていいとおもうし、もしこのさき、そうだなぁっておもえることがあったら、そのときに、そうかんじたらいいことなんだけれど、やるきがないときは、やるきがなくていいってことをしることがタイセツなんだ。にんげんっていうのは、どうしてもシアワセになることだったり、生きる事だったり、よいことをかんがえようとするものだし、そのことがわるいわけでは、まったくないんだけれど、でもこのヨっていうのは、じつはそのハンブンは、ふしあわせや、かなしみや、うまくいかないことでできていてね。じぶんがうまくいってるときは、そのとなりのひとはうまくいっていないかもしれない、じぶんがうまくいかないときは、だれかがうまくいってるかもしれない。そういうふうなつくりになっているんだとおもうんだ。ちょうど、地球の表と裏のように、こっちが朝のときは、むこうが夜みたいなね。だから、ずっと朝っていうことはなくてね。それをつねに朝がくることをねがっていても、それはかならず夜はくるわけでね。だから、ずっとやるきがあるじぶんでいたいとはおもってしまうけど、ぜったいにやるきがなくなってしまうジブンっていうのはでてきてしまうんだ。ずっとっていうのは、むずかしいんだ。だから、ダイジなことは、やるきがないときは、やるきがないんだなって、シゼンにそのままうけいれることがタイセツなんだ。夜はかならずおわって朝がくるように、それは努力で朝がくるわけではなくて、夜はかならずおわって朝はくるものだからなんだ。でも、ここでいう朝と夜のたとえは、努力(どりょく)をしてもイミがないってことがいいたいんじゃないんだ。なにもしないことをすることもタイセツだってことなんだ。つねにうごいているってことだけが、いきているってことではないってことなんだ。たとえば、つねにヒトがタテモノにすみつづけていたら、空部屋にはならないし、つねにお皿のうえになにかがのっていたら、そこにあたらしいものはおけない。たくさんおかねがあったら、はたらきたいとはおもえないわけなんだ。シッパイがあるからセイコウしたいし、ないからもちたいんだ。だから、このなにもしないことだったり、なにもないっていうことが、けっこうタイセツなんだなってことに、きづけるようになると、いまよりもだいぶラクになってくるかもしれないんだ。でも、これはそうアタマでおもっても、そうココロでジッカンがなければ、そうはおもえないとおもうから、おもえないときはおもうヒツヨウはないんだ。ダイジなことは、じぶんにウソをつかないことだからね。 そして、これは余談だけれど、おとうさんは、執着がないひとなわけではなくて、あるようでないひとなんだ。だからヨクボウがないわけではないんだ。無感動、無感情なわけではないんだ。たとえば、タバコをすっておいしいとおもえるのは、このよだけだし、それはこのよを満喫してるってことなんだ。だから、おかねがヒツヨウじゃないと、おとうさんはおもっていたわけではなくて、じぶんの身の丈いじょうのものはいらないとおもっていたところがあるってだけなんだ。じぶんがヒツヨウだとおもうものをかえるおかねだけがあればいいとおもえるヒトだったってことなんだ。でも、このじぶんがなにがヒツヨウなのかっていうカンカクって、ふつうはなかなかわからないんだ。じぶんがなにをどれだけほしいのかって、なかなかわからないとおもう。たとえば、100億円あっても、みたされないひとはみたされないし、100万円でもみたされるひとはみたされる。でも、みんなは、だいたい100億あれば、みたされるだろうとはおもうんだ。だから、とりあえず「おかね」っていうものがモクヒョウにはなっていくところがあってね。でも、ほんしつは、おかねをつかいきれないほど、もっていても、1どに食べれる量はおなじだし、値札のついてるものしかかえないってことは、事実としてあるわけなんだ。だから、そこを実感(じっかん)でわかってるかどうかだけのことでね。それにきづいているほうがすごいとかそういうことでもなくて、おとうさんはそういうヒトだったってだけなんだ。だから、このよですることがまったくイミがないってこともなくてね。このヨがゲームセンターだとかんがえたときに、ゲームセンターだけでつかえるコインっていうものがあるとおもうんだ。ゲームをするには、そのゲームセンターのコインがヒツヨウでね。それをたくさんもってれば、いろんなゲームができてたのしむことができる。だからあればあるにこしたことはないんだ。だから、「おかね」をもとめることがいみがないかっていったら、そんなことはまったくないし、すくなくとも、今生では、おかねがなければ、なにもできないようなところがあるからね。だから、このセカイにいるいじょうは、このせかいをたのしむためにおかねはヒツヨウなんだ。でも、しんだあとは、その「コイン」はかえすってだけでね。でも、そのコインをつかって、このセカイでたのしんだことってコウカイはまったくないとおもうんだ。たのしまなかったよりは、たのしんだほうがいいにきまってるからね。ただ、ゲームセンターのコインは、ゲームセンターだけでつかえるもので、それを家にもちかえっても、なにもかえないからね。だから、家にかえるときは、いらないってだけでね。ゲームセンター(今生)にいるときは、あるにこしたことはないってハナシなんだ。おとうさんのバアイは、あるていど、このゲームセンターのことをしったジョウタイでうまれてきたところがあるから、「おかね」のためにうまれてきたわけではないってことはしっていて、あるならあるにこしたことはないけど、ないならないなりでいいやっておもえるっていうかね。よくおしゃれなヒトは、ブランドにこだわらないっていうけれど、おしゃれになりたいヒトはブランドにこだわるところがあってね。そうすると、ブランドをきること=おしゃれだとおもってしまいがちなんだ。これと「おかね」をもっているイコール「しあわせ」だとおもってしまいがちというかね。でも「おかね」がなくても「しあわせ」にはなれるっていうような、そういうカンカクなんだ。だから、モクテキがさいしょは「しあわせになること」だったのに、いつしかとちゅうで、「おかねをえること」にかわってしまうってことなんだ。そうすると、ほんとうのモクテキじゃないから、いくらそれをてにいれていっても、しあわせをかんじれないみたいなことがおきてきたりするようなんだ。ダッセンしてしまったけれど、ただダイジなことは、タニンがどうおもっていても、どのダンカイにいても、じぶんがほしければ、「おかね」はあつめたらいいんだ。そうしないと、けっきょくのところ、後悔(こうかい)だけがのこってしまうからね。 だから、いろんなひとのジンセイをサンコウにすることはタイセツなんだけれど、1ばんダイジなのは、たにんのナカにはなくて、じぶんはどうなのか?ってことをかんがえていくことなんだ。100億ためないとしあわせをかんじれないひとなのか、それとも100万円でもあったら、しあわせをかんじれるヒトなのか、そこはジブンジシンでしかわからないところがあってね。それをじっさいにてにいれないと、カンカクがわからないヒトと、まえにそういうジンセイをあゆんでいるから、なんとなくわかるヒトがいて、でも、てにいれたことがないなら、てにいれないとだめなんだ。ヒトをみてしまうと、これがブレてしまって、じぶんがわからなくなってしまうから、じぶんとむきあうことがタイセツだよ。だから、おとうさんも、「いま」をいきてる実感をちゃんともっていたし、たのしさや欲(よく)もちゃんとあったんだ。ただ、閉館時間(へいかんじかん)っていうのをしっていたところがあったのと、1どやったことがあるゲームがおおかったから、なにがなんでもってわけではなかったってだけなんだ。でも、ぼくはおもうけれど、すべてケイケンがあるから、えらいわけではないし、なにもしらなかったころのほうがたのしめるってことだってあるとおもうんだ。いろいろしってしまったオトナになると、ジュンスイにこどものころのようにたのしめたり、おどろいたりってできなくなってしまうとおもうんだ。だから、どんなことでも、やってみるってことがいいんだとおもう。シッパイをしたり、うまくいかないってことをオトナになるとこわがってしまうけど、なにもしなくてもしんでしまうことは、確実なわけだから、できるだけシッパイをおそれずにやっていくことがいいんだとはおもう。どうしても明るい朝のことだけをかんがえたり、晴れのことだけをかんがえてしまうけれど、夜はくるし、雨もふるからね。だから、夜にできることや、雨のときにできること、ぎゃくにたのしめることっていうのをかんがえていくと、ジンセイは100%でたのしむことができるんだ。
「生きる事」だけをかんがえることも、ダイジだけど、それは50%なんだ。「しぬこと」もしったうえで、かんがえていくと、のこり50%のぶんもたのしんでいくことができるとおもう。
ただ、これは、そうはおもえないとおもったら、それはムリにおもうことはないとおもう。たとえば、すごくへんなハナシだけど、こどもはじぶんがいつかしぬだなんておもわないでいきていたりするものなんだ。でも、オトナになると、たとえば、たのしめるエイガのジャンルがふえるように、ときには、失恋の映画だったり、フコウな映画をみたりするなかで、かんじたりナミダしたりができたりするんだとおもう。だから、ニガミやシブミだったり、そういうことも、味としてかんじれるようになると、すこしジンセイカンがかわるんじゃないかとおもう。ちょっとながくなってしまったけれど、ダイジなことは、いま、なにもするきがないなら、なにもしないってことを「する」のがいいんだ。たとえば、ねむくないのにねようとすると、不眠症(ふみんしょう)になってしまうわけだけど、ぎゃくに、じゃあ、もうぜったいにねないぞ!っておもうと、ねれちゃったりするし、ねないヒトはいないから、ぜったいにねむることはできるからね。それとおなじで、やるきがない、ムリにやるきをだそうとすると、やるきがでなくて、こまってしまって、ますますだめになってしまうけど、じゃあぎゃくに、やるきをしんでもださないぞ!ってきめたり、いまは、なにもやらない!ってきめると、きめたヒから、やるきになったりするかもしれないから、ぎゃくのことをしていくといいよ。ヒトはじぶんですべてをコントロールできるとおもってしまうけど、夜を朝にはできないし、雨を晴れにはできないんだ。だから、そういうときは、あえて、それをすべてうけいれてしまうといいんだ。そうすると、なにかしら、アタマではなくて、ココロがなにかのこたえをだしてくるからね。

 

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…あかりさんとのやり取りは、以上です。

父の死から二週間経ち、今度は自分で父を感じられる方法は何かしらないかと、『トーキングトゥヘブン ミディアムシップカード』というカードを購入しょうかと、そのカードを使用している占い師さんに相談してみました。…そしたら、このようなお返事が
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「トーキングヘヴンは、素人の方でも付属の解説書にカードの読み方がありますので、比較的分かりやすいカードだと思います。寂しくなったら引く、これは間違っていません。いい使い方かなと思います。

けれど、あまり引きすぎてしまうのも良くないと考えています。
カードには引き方があるんですね。初詣などで引くおみくじを何度も引く人と同じで、何度も引くことに意味はないんです。むしろ、おみくじを信用していないと自分で言っているようなものです(^_^;)

カードも何度も何度も引いていると、カードを信用していないということを表してしまいます。すると、カードがちゃんと表現してくれなくなることがあります。

月命日に引くというのはいいかなと思います。
このカードはAmazonなどのレビューには、「会話をしているみたい」とあることもありますが、そんなことはないですσ(^_^;)
カードを自分で使えるようになるのは、お財布にも精神面でも優しいとはいえます。けれど、自分のことには自我が入ってしまって、うまく解釈することができないということもあるんです。

トーキングヘヴンについては、どっちとも取れるような微妙なニュアンスの解釈は、自分に都合の良い解釈をなされるようになってくると思います。そして、そのうちカードを引くことをやめるようになると思います。

それはそれでいいと思っています(^^)
カードは指針を示すもの。それに頼って生きるものではないです。

それに、故人だって愛されていることは嬉しいと思いますが、ずっとすがっていらっしゃるご様子を見てしまうと、苦しいのではないでしょうか?僕の鑑定の経験上、大切な方を亡くした悲しみや寂しさが大きい人ほど、「安心して」「あなたのせいじゃない」「ごめんね」的なメッセージが多いと思います。

天国からは、ほとんどの場合、前に進んでもらいたいと思われているんです。それなのに、「自分のせいで前に進めなくなってしまっている」人を見てしまうと苦しくて、申し訳なくて、、、でも直接は何もしてあげられなくて、悲しみや苦しみから解き放たれているはずの天国で、悲しみや苦しみを感じてしまうのです、、、。

ひょっとしたらすでにそういう状態なのではないでしょうか???それで、僕とのご縁を故人様がつないでくれて、このような話をさせてくれているのではないかなと思っています。

トーキングヘヴンは恐らく、買われてもすぐに使わなくなってしまうのではないかと思います。それでも、その過程が必要だということもありますが、、、。

けど、僕がその過程より先にこうしてお話してしまったということは、倉田さんには不要だった、もしくは、使ってはいけないものだった、と考えてもいいかなと思います。
どちらにしてもお父様の導きではないでしょうか(^.^)

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何だか、上記のお返事を読んだら、(仕事を依頼した訳ではなく、質問の回答なのに)府に落ちて、勝手に癒されてしまいました。
あかりさんからの父の言葉を信頼して、これからも読み直していこうと思います。

…そしてもう一つ、正解はわからないけど、勝手に府に落ちた出来事があります。
クリスマスの日、いつもはお肉より魚派の私なのですが、商店街に並ぶローストチキンが美味しそうに見えて「クリスマスだし!」と、お惣菜屋さんのチキンを買って、食べてみました。

すると、久々に食べるせいか(歯も弱くなっているのもあり)思ったより硬くて、骨もあって食べにくくて、パサついてるから、よく噛まないと飲み込めず、私は歯があるから何とか食べれたけど、父はいつも入れ歯を外して食べるので、歯無しで硬い物は本当に危ないと感じました。今更ですが…。

それに父のその最後の日は、冷たいお蕎麦と天丼のセットを頼んだらしく、ここからは私の予測ですが、私がクリスマスに何となく『目』がチキンを食べたいと思ったように、父は普段はお昼食べないくらい食欲ないのに、その日はつい目が天丼とお蕎麦を食べてみたくなって、 食べてみたら、食べ慣れてないから意外と食べにくくて、…………………… …。

もし私がいつも食べていないクリスマスチキンの骨を喉に詰まらせて、旦那さんからの発見が遅くて、亡くなったとしても、旦那さんを責める事はないと思うし、ただ思う事は「私、バカだなぁ(苦笑)」と、ボケて突っ込んで、一人でウケてるかもしれません。

父もいつも食べてるスーパーの安いお弁当の、時間が経ってしんなり柔らかい衣で小さいエビの天丼と違って、揚げたてカリカリ・サクサク、歯応えあるプリプリの美味しいエビの天婦羅を、ガブッといつも通り食べようとしたら、「あれあれ何か違うぞ…(・・;)」…という事になった後、肉体から離れて思うのは父ならきっと、「バカだろう!?あはは(笑)」って笑ってる気がします。
不謹慎ながら、娘だから何となくわかります。

入院した時も「こんな事になっちゃって…(^。^;)」と、他人事みたいに笑いながら、経緯を話し、大変なことになってる自覚がなかったのです。

そのお店に連れて行った母を責める事も、私が父に対して酷い事を思っていた事も、恨んだりしないし、「寿命だったんだから、仕方ないんだよ!」と、言ってそうな気がします。
だけど、なのに母と私が自分を責めたのは、どこにもやり場のない気持ちを、どうしてもどこかにぶつけないと、寿命だなんて受け入れられなくて、それを父が望んでいないのはわかっているはずなのに、現実を受け入れる方がずっとずっと辛かったのです。

少し時間が経って、やっと振り返ってみると、父は最後の最後まで『生』を満喫していたのかもしれません。
死ぬまでタバコは止めない!と言っていたので、 直前まで大好きなタバコも吸っていたし、最後は大好きなエビの天婦羅を口に入れたまま、それによって、亡くなってしまったけど、「食べたい」=「生きたい」という思いを、この世を去る間際まで、感じていたのでしょう。

 ある人が言っていましたが、「ご主人(父)は最後に大好きな奥様(母)と食事が出来て、大好きな物(エビの天婦羅)を食べて死ぬことが出来て、幸せな最後だったと思いますよ!そしてそこまで認知が進む前で、娘さん(私)に下のお世話をされる前で、良かったんですよ!」ってこの言葉を聞いた時に、自分を責めていた母や私に向けて、父が言いたいメッセージを代弁してくれていたみたいで、涙が出ましたが、もうこの言葉に尽きるのかもしれません。

老人ホームでも、認知が進んで、便失禁で一日に何回もズボンや靴を汚してしまったり、ゴミ箱に排泄してしまう方を見ていると、父との思い出はキレイなままで良かったのかもしれません。
思い返すと、今まで父とのエピソードを元に文章を書いていたな、と思いました。

父の入院当初の話→『夢イキ体験』

入院数日~数週間後の話→『“生涯現役”の為のリハビリ』

父に助けられた話→『Service ~奉仕~』

父の浮気の話→『罪は父ゆずり』

母と三人での京都旅行のブログ(ほのぼの珍道中でした(*^^*)→『一日目』『二日目』

 

…まだ一ヶ月経たないので、事ある毎に父の事と、他の出来事を結び付けてしまいますが、9月に沖縄に行った時、コロナの影響で、シャッターが閉まっているお店が多く、よく行っているうちに仲良くなった沖縄そば屋さんのお店も、何の貼り紙も無しでシャッター降ろした状態だったので、せっかくお土産を渡そうと、用意していたのに、会えなくて、どうしているか心配していましたが、年末行った時に普通に営業していて、再会できた時に、『生きていれば又いつかは会えるんだな』と感じました。
(家賃保証を頂きながら、半年間自粛していたそうです)

その時に食べた沖縄そばが、心に、身体に染み渡るように、本当に美味しくて…私の味覚は戻っていることに気付きました!

そして、沖縄ではいつもお気に入りのマッサージ店で施術を受けるのですが、機内で座りっぱなしだった身体を伸ばしてもらえるタイ式マッサージは、正に『終わって欲しくない時間』でした。

何もしたくない私だったのが、やはり施術と食事には貪欲になり、この二つだけは唯一、『終わって欲しくない時間』だと実感しました。
それに、私は自分から『終わって欲しくない時間』を作れるのです。
施術を行うことも、私の施術を受けたことがある方はおわかりだと思いますが、ついついギリギリまで長くやってしまって、なかなか時間に収めることは難しく、ついアソコもココも…もっともっとほぐしたい♪という欲で、私にとって『終わって欲しくない時間』なのです!

実は父も生前、シルバー派遣の公園の掃除の仕事は、時間内で途中で止めることはなく、キレイになるまで1~2時間オーバーしても、やり続けていたそうです。
母は「長くやっても、貰えるお金は同じなのにね…」と言っていましたが、父は掃除の仕事は現役時代(入院する二年前までフル出勤)が長く、シルバー派遣の公園の掃除になってからも、プロ意識が高かったのでしょう。

父のプロ意識と私は、同じには出来ませんが、父の誠実さを受け継いでいきたいと思います。

コロナ渦になってから、所謂濃厚接触である私の施術は、なぜか2020年のお客様は、膣ケアの『ディープチネイザン(ヨニマッサージ)』や女性機能アップの『セイクリットマッサージ』を希望する方や、『カルサイネイザン』をやっていきたいセラピストさん達等、『女性性』にスポットを当てた施術の御希望が多く見られました。

コロナで、毎日のように死者や感染者のニュースを見ていると、より『生』を実感する為に、『性』を味わいたいと思われる人が増えたのかもしれませんね。

あかりさんのお言葉で、

『「生きる事」だけをかんがえることも、ダイジだけど、それは50%なんだ。「しぬこと」もしったうえで、かんがえていくと、のこり50%のぶんもたのしんでいくことができるとおもう。』

『たとえば、つねにヒトがタテモノにすみつづけていたら、空部屋にはならないし、つねにお皿のうえになにかがのっていたら、そこにあたらしいものはおけない。たくさんおかねがあったら、はたらきたいとはおもえないわけなんだ。シッパイがあるからセイコウしたいし、ないからもちたいんだ。』

Deep breathの施術は、コロナ渦じゃなかったら、もしかしたらここまで必要とされなかったかもしれません。

それに、父が亡くなってから、急に父との思い出や、父の事をもう少し知りたいと思えたり、何かある度に父の事を思い出します。
生きていた時よりも、ずっと父を感じながら生きています。

父の最後は、あっけなく突然で、ショックでしたが、『終わって欲しくない時間』(大好物を食べている時)だった事を思うと、人生は最後の最後まで『終わって欲しくない時間』の積み重ねでありたいと思いました。

…最後に、私は今まで施術前のカウンセリングで、その方の生活習慣をお聞きして、なるべく食生活やセルフケアで、施術以外でもご自身で改善して頂きたいと思っていましたが、(もちろんその気持ちは今でも変わりはありませんが)今はネットでいくらでも検索出来て、生活習慣の改善法はとっくに知っていたり、わかっていても出来なかったり、どうしても止められない大好物があったり、身体には悪くても、元気が出る食べ物もありますから、私が生活に関して口を出すのは、御希望の方のみにさせて頂こうと思います。
(初回の方には参考までに、生活習慣のアドバイスが記載された物をお渡ししています)

又父の話になりますが、私は若い頃、家が貧乏なのが本当に嫌でしたが、父は身の丈以上の物はいらないと思っていた人で、自分が必要だと思う物を買えるだけのお金だけがあればいいと思える価値観だったので、食事も贅沢しないですごい偏食で、タバコは入院後からずっと吸っていたし、結局その人に必要な物は、一般的には判断出来なくて、気を付けたい人以外は、自己責任でいいように思えます。

なので、カウンセリングに沢山時間を割くより、皆様、貴重な時間をわざわざ作って頂いて、御予約頂いているので、その頂いた時間を有意義に使って、少しでも「気持ち良い♪」と思って頂く施術を長く提供できるよう、お互いに『終わって欲しくない時間』を満喫しましょう(*^-^*)♪

※施術後、御予定がおありの方は必ず時間厳守いたしますので、御遠慮なくお伝え下さいませね。

 

 

 

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家族旅行のブログから、父の『テレビ見ながら寝』を激写(笑)

 

 

……ココまでで、本文を終わりにするつもりでしたが、
実はこの超長文を書いた後、それでも気持ちが収まり切れず、すぐ涙が出たり、情緒不安定で、やはりそんなに簡単には前を向けず、そして文中のあかりさん(長文のメール鑑定の占い師さん)の言っている事はもっともなんだけど、でもどうしてもどうしても父と話がしたくて、もがいて、もがいて、もがいて、…
故人と話が出来るイタコとか、霊能者を探して、何人か試しました

そして、先日お願いした方の時、やっと本当に父と話せた感覚があって、もし又話したくなったらこの人にお願いしょう‼って思いました。

その話はブログの方にアップしました。又長いですが、今度こそ本当に涙が出なくなり、前を向いて行けそうです!
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涙が出なくなるまでのイタコ(霊能者)体験記 | 深呼吸・・・出会ったコトバをおすそわけ★ (ameblo.jp)

本文中のあかりさん(長文メールの占い師さん)とは内容が違いましたけど、私はコレが父だ‼ってピン💡と来る感覚が間違いない感じして、本当に願えば叶う‼って実感しました。

自分でも死者と話すって不可能な事に、全く諦めないで、しつこくしつこく追い求め続けるのは、時間の無駄で、いい加減現実見ないと!なはずなのは、十分理解していたのに、コレが実現しない限りは私は前を向けない!って逆の発想で。

本当にしつこくしつこく不可能を追い求めて、有り得ない世界に辿り着きました!
自分で父と繋がって話せたら、一番いいけど、写真や形見を持ってやってみても、父が答えそうな返事は浮かんでも、自作自演なんじゃないかとか、自己満足の思い込みかもしれなくて、答え合わせは出来ないし、疑い深い私は、やっぱり私には霊能力はないと痛感しました。残念ながら…。

でも予知夢みたいなのとか、その本当に父と繋がれた霊能力のある人を見つけられたり、微妙ながらあるのかもしれないとも思います

それに、私は人にも自分に対しても疑い深い性格なので、だからマッサージのような、身体で体感する事を仕事にしているのかな?とも再確認しました。

ヒーリングとかレイキとか、スピリチュアルとか、目に見えない事の興味はあっても、自分では霊感ないし、それを人には出来ない。
でもマッサージで、身体の感覚で“気持ち良い♪”を体験すると、自然と気分も上がるし、何より身体が軽くなる実感がわかりやすい
これはスピリチュアルを信じる信じない関係なく、誰でも体感出来て、その“気持ち良い♪”感覚は疑いようがない‼
だから、疑い深い私だけど、自分の感覚を信じて、唯一出来る仕事なんだなぁ…。
(最後は自分の原点に戻って、単なる再確認で終わらせて頂きます(^。^;)

・・・そしてそして、その後のお話はブログにアップさせて頂きました。